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起業家・宮脇敬治・宮脇鋼管社長 

商いは楽しむ心なり 〜常識破る鋼管加工サービスの躍進〜

2. イジメられっ子からガキ大将へ

 宮脇は昭和11年、大阪の下町・黒門市場の近くで、父・兼吉と母・あさえの長男として生まれた。父親の兼吉は和歌山から丁稚奉公で大阪に出てきた商売人。宮脇が生まれる頃にはすでに大阪市内の高津町(現在の日本橋)で小さな建築金物店を営んでいた。商売をしていたこともあって、普段の父親は無駄なことには一切お金を使わない無類の倹約家。友人が捨てた足袋を拾って履いたり、「もったいない」と言っては道端に落ちている鉄屑を拾って持ち帰ることが度々あったという。当然、周囲にも厳しく、宮脇は外ではうどん一杯、食べさせてもらったことがなかった。質素な生活だったが、そんな生粋の大阪商人の後ろ姿は後の宮脇に大きな影響を与える。

 だが、小学校時代の宮脇は後に商売を始めるような資質を持ち合わせているとは言いがたい。性格はどちらかというと内気で、線の細いひ弱な少年。算数や理科といった理数系科目にめっぽう強く、家庭教師を質問責めにしてたじろがせるようなことはあったが、学校ではイジメられっ子同然。同級生に命令されては、お菓子を買ってガキ大将に献上するありさまだった。

小学生の頃の宮脇

 ただ、ひとつだけ特筆すべきエピソードがある。宮脇は小学5年生になっていたが、相変わらずイジメられっ子である。その日、宮脇は父親に洋風のべッドを買ってもらい上機嫌だった。ベッドを自分の部屋に置いてもらい、初めてのベッドの寝心地を確かめていた。すると、そこにお手伝いさんが入ってきて「それでは北枕になります。死人を寝かせる方向は縁起が悪いのですよ」と宮脇に教えた。宮脇は困惑した。しかし、一緒に聞いていた父親は「そのままでいい」と素っ気なく言うと、宮脇の部屋を出ていったのである。

 感受性の強い宮脇少年はその晩、ベッドに入ると、父親の「そのままでいい」という言葉に不安を募らせた。「父は僕に死ねと言ったのだろうか」。宮脇はそれまで考えたこともなかった死と向き合って、深夜遅くまで眠ることができなかった。悶々と考えているうち、宮脇はふとあることを思いついた。死に対する考え方を逆にしてみようと思ったのだ。「これほど死が恐ろしいんだったら、死ぬ気でやればできないことなんて何もないんじゃないか。人間はみんないつかは死ぬ。どうせ死ぬなら、思い通りに生きてみよう」。そう考えるようになると、宮脇はようやく眠りにつくことができた。

 翌日、宮脇は右ポケットに石を詰めて登校した。そして、「何を言われても、やったるで!」という強い気持ちを胸に秘め、いじめっ子の命令をきっぱりと拒否した。すると、宮脇の決意がいじめっ子たちにも伝わったのか、それから彼らが近寄ってくることはなくなったのである。
 宮脇はこの日を境に自分に自信を持つようになった。そして、今度は自らが目立ちたがり屋のガキ大将になるのである。

 
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