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起業家・森康次・ナビオコンピュータ株式会社代表取締役

企業は永続と見つけたり 〜情報処理産業の水先案内人〜

3. 理想の会社づくりへの助走

光洋精工時代の組合大会(右端から3人目)

 昭和33年、森は1部上場のベアリングメーカーである光洋精工に入社した。学生時代に答えを出した理想の生き方を、現実の社会で試す時が来たのだ。入社式の当日。森は新入社員歓迎会でいきなり「10年間は一生懸命会社のために尽くして働きますが、その後は独立するつもりです」と挨拶した。サラリーマンになるのは将来、独立して会社を興す時の勉強のため。そう心に決めており、固い決意を上司や同僚が居並ぶ前で堂々と言ってのけたのだ。
 光洋精工では加工機械がズラリとならぶ工場で、現場と営業の調整役を担当しながらベアリング製造の工程管理や原価管理を学んだ。入社当時、メーカーは未知の世界だったが、鉄を加工するダイナミックなモノづくりの現場を肌で感じとることができたことは後の森にとって思いのほか役に立ち、経営をするうえで生命線となる原価意識もここで養った。

 そして、入社2年目に早くも転機が訪れる。
 会社の事務機械化が進む中、コンピュータのはしりと言われるパンチカードシステム(PCS)が導入されることになり、その担当者として本社に呼び戻されたのだ。森は電算機部門の現場担当者となり、コンピュータの元祖であるエレクトロニクス・データ・プロセシングシステム(EDPS)の導入にも携わった。これがコンピュータの世界に入るきっかけとなって、森はその後もコンピュータと長くつきあうことになる。
 さらに、気骨のある資質が評価され、本社の同僚たちからは労働組合の委員長に推された。当時、労働組合は工場の現業員の活動が活発である一方、会社幹部と接する機会の多い本社の活動は消極的だった。そのため、本社の組合は組合仲間から「腰抜け」呼ばわりをされていたのだ。だが、森は請われるままに委員長を買って出ると、組合員をうまくまとめ、時にはピケを張って1週間のストライキも敢行。世間の経済情勢にも明るかったため、やがて「組合の名委員長」と目されるようになり、たちまち女性社員や中高年社員の人気者となった。そうして与えられた環境の中で、コンピュータのスペシャリスト、組合の委員長、さらにはサッカー部の中心選手として獅子奮迅の活躍をする。

 ただ、発展途上にあった当時の会社では縁故入社や同族経営などの旧体質も残っており、また経営の近代化・合理化が遅々と進んでいない状態で、そうした会社の姿は森の目に歯がゆく映った。会社という組織は森が考えていたような素晴らしいものであるどころか、矛盾を多くはらんだものだった。そうした会社の現実は、そのまま「理想の会社をつくりたい」という強い思いへと転化していった。
 「会社を作るといっても個人事業では意味がない。しっかりとした組織を作って、社員が伸び伸び働けて永く後世に残る企業をつくらなければいけない。そのためには柱となる理念や哲学が必要だ」。

  森は結局、15年の間光洋精工に在籍したが、ここでどのような会社をつくるのかということをより具体的に構想するようになったのである。

 
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