1. 九死に一生を得た還暦優勝
1997年、60歳になった宮脇はある大きな目標に挑戦していた。27歳の頃から続けていた水上スキーの全日本選手権で優勝することである。
水上スキーとは、高性能エンジンを搭載したボートで牽引しながら、スキー板で水面を滑走するスピード競技。風のない時だと、滑走スピードは平均時速100キロにもなり、なかでも琵琶湖の102キロのコースで競う長距離レースは強靭な体力が必要とされる過酷なレースとして知られている。宮脇はこの長距離レースの全日本選手権で、8連覇を含む12回優勝という輝かしい実績を持っていた。競技者の間では、毎年大会が開かれる琵琶湖の名をもじって「琵琶湖の鉄人」と呼ばれていた。
すでに還暦を迎えていた宮脇が、再びこの過酷なレースにこだわるのには訳があった。当時、鉄鋼業界は鉄冷えとも言われる不況の真っ只中。会う者はみな出口の見えない不況に疲れ、辟易としていた。若い営業マンでさえ、若年寄のごとく覇気に欠けた者が宮脇の目に歯がゆく映っていた。そんな暗い世相の中で、宮脇は還暦優勝という人跡未踏の記録を打ち立てようと決意。「何歳になってもしっかり目標を持って取り組めば、どんなことでも乗り越えられる」。そのことを宮脇は実行を持って周囲に示そうとしたのだった。
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そして、宮脇は毎日ジムに通って筋力トレーニングを行い、週に2回のペースで琵琶湖を滑走して猛練習に励んだ。ところが大会が2週間後に迫ったある日、宮脇は練習後、胸に違和感を覚え、病院で診察を受ける。原因は過酷な練習からくる心臓肥大。診察した医者はたまらず宮脇を問いただした。
「あんた、こんな体で本当に大会に出場するのか」。
医者の問いかけは、自分の体がとてもレースをできる状態ではないことを示していた。
一瞬、宮脇の脳裏に「大会欠場」の文字が浮かんだ。しかし、今回の大会は自分の生き方を示すために始めた挑戦。止めるわけにはいかない。宮脇は間髪いれず答えた。
「これは私の使命ですから」。
医者は宮脇のきっぱりとした返事を受け止めると、その後、しばらく雑談になった。そして、医者は最後に「日本選手権に出た後、必ずもう一度、精密検査に来なさい」とだけ言うと、宮脇を大会へと送り出したのだった。
大会当日、宮脇はスタート直後に強風からくる荒波で転倒、最後尾から追い上げるレースを展開した。経験豊富な宮脇は慌てず、一人ひとり抜き去った。そして、ついに真紅の大鳥居のゴールラインを1位で通過。通算12回目の勝利を還暦優勝で飾った。
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還暦優勝の時の新聞記事 |
大会後、宮脇は寛大な心で大会へと送り出してくれた医者と再会。宮脇が優勝の報告をすると、医者は涙を浮かべながら喜んだ。宮脇はこの時、医者が「生死の確率が五分五分の状態で、大会に送り出した」ことを知ると、自分のわがままにつきあってくれた医者に感謝の意を述べた。
九死に一生を得た還暦優勝で、宮脇は人間の意志の強さは肉体的な障害をも乗り越えられることを改めて再確認したのである。 |