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起業家・宮脇敬治・宮脇鋼管社長

商いは楽しむ心なり 〜常識破る鋼管加工サービスの躍進〜

8. 商売はgive&give

 その後、宮脇がいちから育て上げた鋼管リサイクル業は、順調に軌道に乗っていた。本社工場も当初の30坪の土地から3年ごとに160坪、そしてクレーン付きの600坪への土地と移転。事業を拡大していく。
 そして、1981年、さらに事業の拡大をめざす宮脇に一大転機が訪れる。当時、宮脇は西成区の土地に一大鉄鋼流通団地を建設する計画に参画。移転計画を着々と進めていた。ところが、この流通基地の建設計画が不況のあおりを受けて中止。その代わりに、知人から「いいところがある」と空き工場になっていた土地を紹介されたのだ。

 しかし、知人から紹介された土地は実に4000坪もある大きな工場だった。 「そんな広い所に移ってどないしますねん」。 当時の幹部は、宮脇の大きすぎる構想にこぞって反対した。それもそのはず。当時、宮脇鋼管の従業員はまだ20人たらず。何より宮脇が鋼管リサイクル業を営んでいた工場はたったの600坪で、紹介された工場はその6〜7倍。工場の家賃支出だけでも100万円から1000万円と10倍に跳ね上がるのだ。いくら事業が軌道に乗っているとはいえ、鉄鋼不況真っ只中の折、到底ソロバンに合う話ではなかった。 しかし、宮脇は周囲の声を制し、尻込みする幹部を前にぶち始めた。
 「鋼管リサイクル業は公害をなくす、社会のためになる事業だ。だが、今のままだと、当社ができる商売には限度がある。わしらが事業を拡大せんかったら、全国の発生品は誰が扱うんや。わしらがやらんかったら日本全体の損失になるぞ」。  
幹部たちはみな黙り込んだ。

 そして、宮脇はすぐに土地契約を済ますと、工場移転へと動き始めた。
 とはいえ、宮脇自身、明確な勝算があるわけではない。大きな工場への移転に意欲を示したのは、ある種の直感にすぎない。後に、宮脇はこの時の決断についてこう語っている。
 「もちろん普通に計算すれば、うまくいく可能性は万にひとつもなかった。ただ、社会にとって良いことをするのだから、思い切ってやってもいい。見返りを期待せずに人のためになる仕事をしていれば、そのうち必ず助けてくれる人も出てくるし、チャンスも広がるんじゃないか。そんな風に考えていた」。
 こうして宮脇は周囲を圧倒する気迫で、工場移転を果たす。

 昭和51年8月、新工場が稼動を開始すると、宮脇が感じた直感はすぐに現実のものとなった。大きな風呂敷を広げた所に人が集まってくるように、発生鋼管の扱い量は増加。なかでも、それまで手の届くことのなかった住友金属工業や日本鋼管(現、JFE)といった大手高炉メーカーとの取引が始まったことは、宮脇鋼管にとって大きな意味を持っていた。この時の成功体験から、宮脇は見返りを期待せずに人のために尽くしていれば、それが回りまわって自分を助けてくれるというgive&giveの経営を説くようになる。

 のるかそるかの大勝負を乗り切った宮脇は、その後、次々にサービスの幅を広げる。発生品集めを全国のメーカーに拡大し、工場にはパイプのフルサイズ常時1万トンの在庫体制を確立したのだ。その結果、宮脇鋼管は全国の発生品の8割のシェアを獲得するまでに成長。また、販売先が増えるにつれ、新品である1級管の扱いも急増して、1991年には1級管を扱うミヤワキ・ファースト・スチールを設立するに至った。
 宮脇鋼管は今や、押しも押されぬ成長企業へと成長していた。

 
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