“安全”を開発せよ! 〜世界初、夢のナット開発に賭ける〜
5.ひとつの成功、新たなる挑戦
起業して3年目が過ぎたその年、徐々にマーケットに認知され始めていた「 U ナット」に、いくつかの協力者が現れる。
一つは、業界の有力問屋数社が、「 U ナット」の販売協力に名乗りを上げたのだ。若林は早速、代理店制度を組織して、自ら説明会に足を運んで幾度も商品説明を行った。かくして「 U ナット」は、全国販売に乗り出すことになる。
また、自社で生産していた製造面でも、専属下請けを打診する話しが舞い込む。少ない陣容で製造までを手がけるあまり、生産コストの引き下げに手を焼いていた若林にとっては渡りに船の申し出だった。
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30 代半ば。本社事務所で |
もちろん、こうした他社との協力が最初からスムーズにいったわけではない。代理店となった問屋は、最初こそ社長命令で「 U ナット」の販売に力を入れたが、新商品の販売は足が遅く、営業マンの成績につながらないため、3ヶ月も経つと、販売協力は尻すぼみになる。
製造協力を申し出た専属下請けに至っては、溝加工がうまくできずに、最初から製造した全ての製品をスクラップにせざるを得ない事態となった。このため、若林ら社員自らが下請け会社に乗り込み、技術指導する共同事業での協力体制とせざるを得なかった。
そんな紆余曲折を経て、「 U ナット」は4年目にして初めて黒字を計上する。ようやく軌道に乗ったのだ。
「ほんと、その時は、世間で黒字経営と言われている会社は、みんなこんなに大変な苦労をしているのか、と改めて感心した。それと同時に、途中で諦めずに、忍耐強く続けてきて良かったとホッとした思いもあった。“継続は力なり”とよく言いますが、それは本当。うまくいかないからと言って、途中で投げたら、何も始まらない」。
その後、「Uナット」は産業社会の追い風に乗り、順調に販売量を増やし、わずか 10 年たらずで、製造会社の従業員も 80 人に拡大するまでに成長した。
しかし、「 U ナット」の成功は、また新たな苦難とチャレンジを、若林に用意していた。
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昭和 45 年当時の本社兼工場 |
「U ナット」は緩まないと言っても、どんなに強い衝撃や振動にも耐えられるというわけではない。例えば、削岩機や杭打ち機など、強い衝撃が持続する場所に使用すると、ナットはしだいに緩みが出て、事故につながるケースもある。そうしたクレームは、「 U ナット」が広く使われるようになればなるほど増えたのである。時には、ユーザーから「事故が起きたから弁償しろ」と、すごまれることさえあった。ちゃんと使用用途を吟味して使えば問題はないが、商品を販売した後までユーザーに指導するわけにはいかない。そのため、若林は、「 U ナット」が順調に販売量を伸ばしていても、ユーザーが商品をどんな所に使用しているのかを考えると、いつもヒヤヒヤして、落ち着かなかった。
―このクレームから逃れるためには、もう一度、「絶対に、何があっても緩まない完璧なナット」を考え出さないといけない。
若林は、次第にそう考えるようになる。 事業のかたわら、若林はまた考案・開発に没頭した。だが、今回ばかりは、なかなか突破口は開けなかった。 |