ビジネス・リンキング 〜塾経営から拓く総合教育の道〜
4. 失業、そして5年で11社の転職
大学卒業後、結局、教職に未練を残しながら商社マンとなった木村は、しばし世界を股にかけたビジネスの妙味を味わう。大学を出たばかりの若者が外国企業との間で数百万円もの商談をまとめる経験は、武者震いするほどの充実感を与えたに違いない。木村は営業や企画などの商社ビジネスを肌で実感。さらには貿易英語や会社の運営方法など、多くの事をここで学ぶ。
なかでも大きかったのは、当時、課長職にあった澤典男(現・サワ商事社長)との出会いである。澤は、辣腕の先輩群に混じって仕事の力不足をカバーするため、いつも遅くまで残業していた木村に仕事の助言ばかりか、「人生とは何か」「生きるとはどういうことか」という話を語って聞かせた。
「人生は地位や金、物によって左右されてはダメだ。より高度な人生というのは主観的で物欲的な生き方を解放して、円錐の頂点を目指すように自己を無我の世界へ近づけていくことだぞ」。
木村は澤の語る哲学をおぼろげながら理解し、深夜まで興味深く聞き入った。2度、3度と聞いていくうちに木村はさらに理解を深めた。この澤が語って聞かせた明治初期の社会思想家・尾崎咢堂の「円錐人生」は、その後、木村の生涯にわたる人生哲学となる。
しかし、そんな有意義な商社マン生活にも木村は早々と見切りをつけ、2年で退社。また、就職してまもなくして一緒になった妻との結婚生活も破綻し、順風満帆に見えた木村のサラリーマン生活が急旋回し始める。
「何のために生きるのか」
「何のために仕事をするのか」。
木村は失業生活の中で、答えのない自己問答を続けるようになる。「自分で納得してからでないと走り出さない性格」を理解してか、両親はそんな木村を何も言わずに温かく見守った。
「あの時はほとんどノイローゼ状態だった。それでも次から次に本を読みあさって、どう生きたらいいかを真剣に考えていた。本当なら両親の面倒を見るべき自分が逆に面倒を見てもらって、不甲斐ない思いだった」。
失業生活は6カ月に及んだが、それでも答えはすぐには出なかった。木村は悶々とする日々を過ごしながら、その後も転々と職業を替えていく。電機メーカー、企画会社、専門学校、高校教師など5年間で10社もの職を替え、木村は20代で一生を二世(ふたよ)、三世(みよ)にも送る航跡を残すのである。 |