ビジネス・リンキング 〜塾経営から拓く総合教育の道〜
5. 人心を動かした“気”の創業
何に対しても積極的な努力を惜しまない木村は、なぜ転々と職を替えていったのか。木村は、サラリーマン生活を振り返ってこう語っている。
「会社という所は本当に必要であるはずの顧客サービスを徹底しない。おまけに社内では派閥があって、足の引っ張り合い。果たして、自分は人間として本当に成長できるのか、納得がいかなかった」。
昭和49年、ついにサラリーマン時代最後となる高校教師の職につく。かつて、大学時代に夢見た「教育の道」である。だが、就任して間もなくまたもや情熱の感じられない荒廃した教育の現場を目の当たりにする。「あの教育実習の時に感じた疑問と同じだ」。そう思った木村は就任早々に教頭と英語主任の先生に意見具申した。
「もっと生徒に情熱をもって接するべきではないでしょうか」。
「まあ、そう言わないで。子供のお守をしておけばいいんだから」。
木村の思い切った意見に、英語主任の答えは冷淡だった。
この時、木村はひとつの決断をする。「真の学科指導を行う塾教育を自分で始めよう」。
高校教師をわずか3日で辞したあと、木村は創業の準備に入った。
当時、自己投資のためにサラリーのほとんどを費やし、借金もかかえていたが、「命をかけてでも」と意気込む木村に不安は微塵もなかった。木村は理想の学院づくりに希望を燃やしていた。
KEC創業時、最初にテナントを貸したビルオーナーの南幸子氏は、乏しい資金でテナント探しに訪れた木村のことを今もよく覚えている。
「12月の寒風の中、京阪沿線のビルというビルを探し歩いてきたという青年が何度も何度も交渉しにやってきたんです。初めは条件が合わず断っていたんですが、そのうち彼の教育にかける情熱に打たれて応援してあげたいと思うようになりました」。
生来、人は情熱によって邁進する者に吸い寄せられるものなのかもしれない。建物を確保して、自ら内装工事や看板づくりを手掛けようとする木村を、今度は通りがかりの人々が助ける。たまたま通りがかった建設会社の社員は不器用な手つきで入り口の扉を修理する木村を見て、大工道具の使い方から修理工事までを手伝ってくれた。また、素人の木村を見かねた看板屋の社長は無料で看板文字を描いてくれるといった具合だった。
木村は忙しさのあまり食事を摂るのも忘れて準備にかかり、通勤のための電車代と時間を節約するため、事務所に寝泊りして過ごした。
時は第1次オイルショックの真っただ中。不況の暗い世相に加え、国家的な節電対策で街灯があらかた消えた暗い街で、木村のKEC近畿教育学院が小さな灯を点した。
木村、27歳。資金も人脈もない、まさに徒手空拳。逆境の中での創業だった。 |