ビジネス・リンキング 〜塾経営から拓く総合教育の道〜
6. 帰らない子供たち
木村がKEC近畿教育学院を創業した昭和49年当時、世間では覇気のない若者の風潮が社会問題となっていた。俗に「三無主義」と呼ばれ、何に対しても無気力、無関心、無責任な若者の姿は、高度成長を経て豊かになり始めた日本社会が見せるひとつの病理であった。しかし、子供たちの変化に公立の学校をはじめとする既存の教育機関は対応しきれなかった。戦後教育もまた時代が豊かになる中で疲弊し、行き詰まっていたのだ。大学時代の教育実習、社会人になってからの外語学院、高校での教師体験を持つ木村は、このことを肌身に感じてよく知っていた。
そのため、木村は創業当初からわき目もふらず、周囲を圧倒する勢いで「熱誠指導」を行う。1年365日開校し、宿題をしてこない生徒には授業後も宿題が終わるまで帰さず、授業を理解できない生徒には完全に理解するまで居残り指導を行う徹底ぶり。今でこそ、夜の電車に塾帰りの子供を見かけるのはありふれた光景だが、当時はまだ塾教育もそれほど多くなかった。深夜遅くになっても帰宅しないわが子を案じた親たちは、KECに苦情を申し立てたることもしばしばだったという。しかし、木村は周囲の雑音を意に介することなく、「子供たちのことを思えばこそ」という思いを胸に、毎日、深夜0時の最終電車で帰宅する生活を送った。
木村の塾が他と大きく違っていた点は受験対策指導だけでなく、ネイティブを招いての英会話教室や宇治・万福寺での禅修養、空手教室、スケート教室、さらにはチャリティー・クリスマスパーティー、正月特訓など様々な体験学習を実践したことである。そうしたプログラムの中には商社マン時代に「円錐人生」について説いてくれた澤氏の社会実践談もあった。
そうするうちに、次第に生徒たちにもある変化が起きてきた。クラスの数人の生徒たちが授業開始の1時間前に教室に来て、深夜0時過ぎまで残って自主的に勉強するようになったのだ。彼らは学校に弁当をふたつ持って行き、ひとつは学校の昼食用、もうひとつはKECでの夕食用にしていた。そして、その生活を1日も休まず365日続けた。
「今の子供たちは三無主義などと言われているが、本当は先生と接することを望んでいる」。木村は情熱指導を掲げて創業したことが間違いではなかったことを確信した。 |