ビジネス・リンキング 〜塾経営から拓く総合教育の道〜
7. 予定外の訪問者
創業時の3カ月間で300人もの生徒を集めたKECは、その後、毎年1校のペースで塾を開校する活況ぶりを見せる。しかし、そんな順風満帆の折、思いもかけないある事件が起きる。
昭和62年8月、夏期集中講座で多忙を極めていた木村の部屋を予定外の訪問者が訪れた。入ってきたのは、その年のほぼ同時期に入社した5人の教職員と、見知らぬ2人の男。要領を得ないまま木村は彼らを部屋に招き入れる。そして、男達はテーブルの向こうに整然と座ると、間髪を入れず、「労働組合を結成することになりました」と切り出したのだ。木村は耳を疑った。当時は成田闘争をはじめとする社会運動が活発な時代ではあったが、まさか自分の会社が標的になるとは夢にも思っていなかった。あまりの突然の申し出に驚きを隠せないでいると、追い討ちをかけるように初対面の2人の男が労働団体の地方責任者であると名乗った。
「KECの一枚岩にヒビが入った」
木村は深い屈辱感を味わった。それもそのはず。創業時から理想の学院づくりを掲げ、社員に「親和協調」を説いて一つひとつ積み上げてきたKECはすでに創立14年目を迎え、学校数も14校を数えるまでに成長。
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なかでも信頼の絆で結ばれた社員の結束は木村の一番の誇りだったのだ。その結束にヒビが入るとは。思わぬ不意打ちに、さすがの木村も肩を落とした。「そばで見ていても理事長の無念さは手に取るように分かりました。それでも理事長は彼らを理解しようと、“人にはそれぞれ育ってきた背景があるからなあ”としきりに言っていました」。
秘書の松尾照代氏は、当時の木村の様子をこう語る。
そして、組合は長時間労働の改善や休日出勤の撤廃などを盾に、たびたび団交を開くことになる。しかし、木村も負けてはいない。団交の際には必ず「お願いします」「ありがとうございました」と互いに挨拶を交わし、議論が白熱しても互いを尊重して礼儀を守るよう組合に約束させ、真っ向から彼らの意見を聞くことに努めたのだ。雇う側と雇われる側という立場の違いもさることながら、思想的な違いによる溝はなかなか埋まるはずもなかったが、それでも木村は辛抱強く彼らと向き合った。
そんな木村もある日の団交で組合員がKECの教育を批判したことに声を荒げて激怒した。「お前たちには教育を語る資格がない!もっと人間の勉強をしろ!」。日頃は温厚な木村も教育への罵倒は許せなかった。場は一瞬静まり返り、そして激しく叱責された組合員もさすがに黙り込んでしまった。木村はその後も「人間の信義とは何なのか」「経営者も労働者である」ということを事あるごとに説明した。
こうした闘争は1年間続いたが、結局、約50名の社員は1人もオルグされることなく、組合は自然消滅することとなった。ただ、この事件をきっかけに木村も自らの行動や考え方を大きく転換した。「若さゆえに過度な理念浸透を急ぎすぎたこと。教育サービスの提供を重んじるあまり、働く人たちへの配慮が欠けていたことなどを素直に反省した。厳しい心的闘争だったが、学ぶべきものも多かった」。そう木村が述懐するように、この組合騒動を機にKECは図らずも、木村を親方とするそれまでの個人企業から社会的に認められる立派な一企業へと脱皮していくことになる。
この組合との闘争には後日談がある。突然の労働組合結成で揺れた1年後、当時の組合員の1人が就職を希望してKECを訪れた。彼はKECを去った後、いくつもの会社を渡り歩いて、再びKECに戻ってきたのである。「KECのように教育に熱心な学院はない」。彼の言葉に、木村は当時の屈辱を忘れたかのように喜んだ。 |