商いは楽しむ心なり 〜常識破る鋼管加工サービスの躍進〜
5. 日本一のパイプ屋になる!
バラック小屋で事業を始めた宮脇は朝8時に起きて店を開け、古鉄を買い集め、自転車に山のように鉄屑を積んで大阪市内を走り回った。そして、夜7時には店に戻って深夜まで1人で帳簿をつけるという生活を送る。夜は疲れて店に寝泊りすることも1度や2度ではなかった。休みもほとんど取らなかった。家族など周囲の者は「そんな働き方をしたら体を壊してしまうぞ」と心配したが、懸命に働く宮脇は意に介さなかった。
そのうち商売のコツもつかんだ。例えば、鉄屑業者を回って仕入れを行う場合、宮脇は鉄屑の山を瞬時に見分け、一番買いたい山の交渉を後回しにする。そして、2番目、3番目の山の値段交渉をしてから、最後に一番の山をつけ足すのである。「一番買いたい山を欲しくないような顔をして安く買う」のが宮脇の学んだ仕入れのコツであった。
商売のコツが分かると、自然と商売の面白さも実感できる。宮脇は自分の目利きで仕入れた商品がユーザーに売れていくことにやりがいを感じ始めていた。
また、辛い仕事の中に楽しみもあった。宮脇が一念発起して商売を始めた昭和30年代、日本はまだまだ貧しかった。そのため、大阪の街には路上を商いの場とする商売がいくつもあった。なかでもユニークだったのは、大阪市内の東に広がる上町台地の坂道で待機している「押し屋」である。当時、宮脇は自転車の横に荷台をつけた運搬車で古鉄を配達して回っていた。若くて体力のある宮脇はたいていの坂は自力で登ったが、この上六の坂だけは押して登るしかない。そんな時、待機していた押し屋が「兄ちゃん、いつも大変やな。押したろうか」と声をかけるのである。しかし、宮脇はいつも押し屋の申し出を断り、坂を登り切った所で陣取っているアイスキャンディー屋のアイスを頬ばるのである。ひとりで走り回る宮脇には、そのアイスの甘さが人一倍おいしく思えた。
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社員とのドライブ |
ただ、商売といっても鉄を持ち運び、体中を錆だらけにして街を駆け回るのはキツイ仕事であった。今で言えば3K職場の典型である。そんな時、企業に就職した同年代の若者を見て、少しの妬みも感じなかったと言えば嘘になるだろう。まして自分は将来の保障もない、不安定な身。多少の焦りもあったはずである。この頃、宮脇は街を駆け回りながら、身奇麗な洋服を着て颯爽とすれ違う女性を見ては、こう心に誓うのだった。
「将来、俺は必ず日本一のパイプ屋になって、みんなの賞賛を浴びてやる」。 |