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企業家・大内邦春・株式会社オーエムエムジー代表取締役社長

出会いを創造する 〜結婚情報サービスが拓く結婚新時代〜

オーエムエムジー創業物語(大内豊春・潟Iーエムエムジー創業者)

2. 私財投じた62歳の挑戦

 昭和 53 年、大内がアルトマン社で働き始めて2〜3年が経過した頃、ある出来事が起こる。アルトマン社の幹部が、「日本での営業権を買い取らないか」と持ちかけてきたのである。しかし、買い取り額は途方もない金額だった。大内は買い取りこそ断念せざるを得なかったが、逆にその高い金額に、結婚情報サービス業の確かな手ごたえを感じた。

 翌年、大内は前林医師に声をかけると、独立を決断。昭和 54年に、OMMGの前身となる「椛蜊繝}リッジメディカルガイダンス」を設立する。

入居する創業当時の大阪駅前第二ビル

 会社設立には、多額の投資を必要とした。というのも、大内らが構想していた結婚情報サービスは、ごく限られた狭い地域の人を対象にした旧来の結婚仲介業とは異なり、広範囲に会員を募集して、より多くの異性から結婚相手をマッチングさせるものだったからだ。それを実現するためには、大量の会員データを効率良く処理するコンピュータの導入と、広範囲のあらゆる層の顧客を集める大規模な広告展開が必要だった。コンピュータは当時、一部の大手企業は導入していたが、まだまだ高額。彼らが、購入したコンピュータも1000万円もの高額だった。

 大内は会社設立に際し、退職金のほか、古文書、浮世絵、刀の鍔など自身のコレクションを処分し、私財2500万円を投じて、その第一歩を踏み出した。

 当時、大内は 62 歳。大手企業の取締役を務め、それなりに地位や名誉、財も手にしていた彼には、普通なら悠々自適の生活が待ち受けていたはずである。そんな彼が、なぜ私財を投げ打ってまで、新事業にチャレンジしたのか。

 その根底には、遠く遡ること太平洋戦争の末期、過酷な戦場で経験した壮絶な戦争体験があった。若き日の大内は、展開した 14 万人の兵士のうち、わずか1万人しか生還できなかったという東部ニューギニア戦線に従軍していた。燃料や銃火器、弾薬、食料の補給が途絶え、極度の飢えの中で兵士は息途絶え、隣で戦っていた仲間は次々に銃弾に倒れていく…。そんな絶望的な戦場で、豊春は偶然にも生き延びた。日本の敗戦が確定した時、隊の司令官は若い大内らに、こう語った。

 「この戦いで数多くの命が失われてしまった…。若い君たちは、これから日本に帰って、新しい日本を創るために、力を尽くして欲しい」。

 その上官の遺訓は、 60 歳を過ぎてなお大内の心の中でくすぶっていた。

 「何か、社会の役に立ちたい」。その思いが、ともすれば安泰な暮らしに傾こうとする大内を動かしていた。

 そして、人は本来、信念を持って生きる真摯な人間性に、引き寄せられるものなのかもしれない。まだ会社経営も心もとない創業当時、大内の呼びかけで、過酷な戦場をともに生きた戦友3人が役員として参集する。後に、OMMGが業界トップの企業に成長した要因の一つには、こうした人を惹きつける大内の人間的魅力があった。

 大内の魅力に引き寄せられて転職を決断し、現在は同社専務を務める岡氏は、こう語る。

 「深い教養、含蓄のある言葉、道理を外さない理念の人。会って話した瞬間に、『この人についていきたい』と思わせる魅力がありました。『儲けるのではなく、世の中のためにやっていれば、利益は後からついてくる』というのが口癖。公私のケジメにも厳しく、従業員を食事に連れて行っても、伝票は一切、社内に回ってこない。従業員に家族以上の愛着を持っているが、決して会社を私物化することもしなかった」。

 かくして日本初の結婚情報サービス業が、大内のもとで動き始めた。

 だが、事はそう簡単ではなかった。古くから善意によって縁談を取り持つことが当たり前とされた日本社会では、あらかじめお金を取って縁談を紹介することはいかがわしいとする風潮があったからだ。後のOMMGの発展は、同時にそうした世間の“懐疑”“偏見”との長く険しい闘いの歴史ともなるのである。
 
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