出会いを創造する 〜結婚情報サービスが拓く結婚新時代〜
オーエムエムジー創業物語(大内豊春・潟Iーエムエムジー創業者)
4. 一気呵成、業界NO1への戦略
有料の縁談紹介ビジネスにつきまとうネガティブなイメージを払拭しながら、事業を軌道に乗せた大内。 OMMG は、その急成長によって、昭和 61 年には売り上げ、会員数ともに業界トップの座につく。
|
結婚情報サービス業について講演する大内豊春 |
そして、その後もマッチングプールの拡大と会員サービスの充実を着々と進める。その大きな戦略の一つとなったのが、新聞から雑誌への広告媒体の見直しである。これらの施策を推し進めた田中龍郎氏(現・常務取締役)は、当時をこう語る。
「広告媒体の見直しは、地方の広告のコストパフォーマンスが悪化したのが発端でした。それはターゲット層の広告媒体の中心が雑誌へと切り替わりつつあることを示していました。このため、広告宣伝業務を本社に一元化し、統一したロゴタイプをつくるなどして、OMMGの統一したイメージを雑誌媒体中心に宣伝する方針に切り替えていきました」。
その後、OMMGは、広告代理店と共同で開発した書店用の紙袋を、広告媒体にするという抜群のアイデアも実践する。それは、紙袋に簡単な心理テスト付の返信ハガキ(チャンスカード)を入れ、書店で本を購入したすべての人にOMMGを売り込むことができるセールスプロモーション戦略だった。返信ハガキにはコード番号が付けられ、書店ごとに返信率を数ヶ月単位でデータ化。そのデータが蓄積されていくことで、毎月、どこの書店でどれだけの紙袋が消費されるのかといった広告効率も、自社ではじき出すことができるようになる。
平成 2 年には、この書籍袋の自社製造を開始。年間1億円近くかかっていた出費をコストダウンすることが、目的だった。もともとメーカー出身だった大内は、製造業に対する夢を持っていたこともあり、軽量紙袋事業への参入は社内幹部との検討の末に、大胆に行われた。
こうした書店を通じた思い切った広告展開により、OMMGは日本がバブル経済に沸いていた昭和 63 年に会員約6万人、最高売り上げ 92 億 4000 万円を記録。また、同年には岐阜支社開設をもって、 47 都道府県を網羅し、空白県ゼロという全国ネットも完成させた。支社数は、最盛期で 70 支社を数えた。
大内が東京・麹町の小さな事務所で、ひとり「結婚」について思案していた日から 10 年。この短期間のうちに、大内の夢は大きく花開いていた。 OMMG の成長は、日本の伝統とも言うべき「縁結び」に「情報サービス」という近代的要素を取り入れた「結婚情報サービス」という新しい業態を、日本社会に築いたことを意味していた。 |