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3. 父と息子、2つの軌跡
大企業であれ、中小企業であれ、サラリーマン生活は、その職場環境や上司次第で、その人の成長が左右されることがある。とりわけ、良い上司と出会えるかどうかは、重要なポイントだ。その点、損保会社時代の邦春は、良き上司に恵まれた。損保マンとして、関西から東北方面まで広範囲にわたる営業で活躍していたが、邦春は当時、営業部長で若手の信望も厚かった上司のこんなエピソードを覚えている。
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エリートビジネスマンの時代 |
バブル全盛の時代、損保会社はこぞって節税を売り物にした金融商品に参入し始めていた。邦春ら若手は、そんな会社の安易な方針に意義を唱え、営業部長に進言する。すると、営業部長は、血気盛んな若手の声に耳を傾け、最良の言葉で若手を奮起させた。
「君たちの言うことは、よく分かる。だが、会社の方針を変えるためには、まず営業成績で一番になろう。一番になってから、会社に意義申し立てしようじゃないか」。
その後、邦春らの営業部が優秀な営業成績を収めると、営業部長は約束通り、取締役会議で若手の意見を会議に諮った。
「部下の意見をしっかり聞いたうえで、良き点を認め、必要な点も指摘する。リーダーとして、いい加減なごまかしをしない、ありがちな事なかれ主義にも陥らない。中でも最も教訓となったのは、組織を動かす時には、勝ってから物を申すということだった」。
また、サラリーマン時代に、労働組合の執行委員を経験したことは、後に企業家となる邦春にとって、大きな収穫だった。
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損保会社時代の組合幹部と |
執行委員は、組合員 4000 人を代表し、経済環境や会社の現状を見極め、賃上げ交渉を行う。しかし、経営陣の多くは、もとは労働組合の書記長クラスを経験した人事・労務に強いツワモノぞろい。そんな経営陣を前に、ある時は会社の方針を糾弾し、ある時は会社のあるべき姿を提案する。邦春はいつも議論の突破口を開く「切り込み隊長」の役割を果たした。団体交渉での邦春の責任感は、人一倍だった。邦春は納得がいかなければ、時に組合委員長や書記長の妥協案にも首を縦に振らなかった。
誰かの指示命令もなければ、目に見えたメリットがあるわけでもない。そんな中で、多くの組合員の意見を調整し、経営陣と対峙して、問題をひとつづつ解決していく作業は、邦春にとって大きなプラスとなった。
邦春は、損保マンとして、順風満帆にエリートビジネスマンの階段を上がっていた。
一方、父・豊春は九州日立マクセルの社長を退任すると、オーエムエムジーを創業。邦春が 27 歳の時だった。定年を過ぎた父の一念発起に、邦春はあまり関心を持っていなかった。
「なにか大きな結婚相談所のようなものを始めて、親父はわけのわからんことを始めたと、半ばうさんくさく感じていたのが正直なところでした。しかし、 70 歳を越えて、なお現役でがんばる父の姿を見て、一度は一緒に仕事がしてみたいとも思っていました」。
この時、邦春は、後に自らがオーエムエムジーの後継者になるとは予想だにしていなかった。
戦後のエリートサラリーマンの人生を全うし、定年後に新たなチャレンジに奮闘する父。そして、父の走った道を追うかのように、今まさにエリート街道をまっしぐらに突き進む息子。お互いに交わらないかに見えたその2つの道筋は、ある日を境に同じ軌跡を描くようになる。 |