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4. 38歳の決断
その日、邦春は、久しぶりに父と食卓を囲んでいた。
普段は、めったに仕事の話をしない2人だったが、その日に限って、父・豊春は言葉少なに自らの会社の現状を漏らした。
当初、5人から始めた父の会社は、その頃にはすでに従業員 200 人規模の会社に成長していた。会社組織が急激に大きくなると、管理能力に長けた人材が必要になるのは企業経営の要諦である。だが、奔走する父を横目で見ながら、会社運営に大きな負担がかかっていることは、邦春もうすうす感じていた。
「行こうか?」
邦春は、口を開いた。
「来るか」。
2人の会話は、簡潔明瞭。阿吽の呼吸だった。
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オーエムエムジー入社直後の邦春と豊春 |
邦春は、当時、 38 歳。勤めていた損保会社では、すでにマネージャークラスの入口に入りかけていた。部下を動かす重要な仕事を任されながら、この先、肝心な時に辞めることになれば、会社には多大な迷惑がかかる。また、所帯を持ち、3人の子どもにも恵まれていた。全国の支社を点々とする、これまでの転勤族を続けることは、子供の生活環境にとっても良くない。邦春にとって、今が最後の決断の時だった。
1991 年4月、邦春は 取締役総合企画室長という立場で、 OMMG に迎え入れられる。邦春の入社と同時に新設された総合企画室では、 企業の制度整備に始まって就業規則の見直しや事務マニュアルの作成、研修制度の新設など、急成長する過程で見過ごされてきた企業体系の整備に取り組んだ。また、同時に OMMG がこれまでに蓄積してきた結婚情報に関する膨大なデータの整理にも着手する。
しかし、一部上場企業のマネージャーまで務めた邦春にとって、まだまだ発展途上のオーエムエムジーの企業経営には、少なからず疑問を感じることが多かった。脆弱な 組織の運営や人材の配置、社長である父の2時間に及ぶ訓示だけで終わる会議…。創業者である父に集中する会社運営は、父のカリスマの大きさを示すものだったが、同時にそれは「創業者がこけたら、会社もこける」ということを意味していた。
また、外に出て、人に会えば、「OMMGというのは、何の略ですか?」と聞かれることが多かった。「 正式名称の大阪メディカルマリッジガイダンスという企業名は、これまでの成長過程では通用したかもしれないが、今の時代には合わない」。邦春は、異業種から転身してきたからこそ、分かることもある、と考えていた。
そんな邦春も、入社からの半年は、会議に出ても発言を控えるように社長から指示され、隠忍自重の日々を強いられた。邦春は、聞くことに徹し、そのつど疑問に思うことはリポートにまとめて社長に提出。そのリポートには、必ず朱筆が入れられ、 75 点といった具合に点数がつけられた。
邦春が入社した 90 年代初め、 OMMG は大きな壁に突き当たっていた。父・豊春が創業した 80 年代は、それまで日本に存在しなかったコンピュータによる相性診断とマッチングを導入した物珍しさから会員数は急増。全国展開で次々に支社を開設したこともあって、 86 年には売り上げ、会員数ともに業界ナンバー1を達成。 88 年には 92 億円という過去最高の売上高を記録していた。しかし、その後は業界トップこそ維持しているものの、売り上げ、会員数ともに頭打ち。 OMMG には、新たな戦略が必要とされていた。 |