1. 自分の目で見て確かめるスタイル、晩年まで
タクシー業界では「多田天皇」の尊称を受け、名実ともにタクシーの近代経営の生みの親でもあった多田清は、自分に厳しく周囲にも厳しい人だった、という。
「独特の威厳があって、普通の人は近寄りがたい存在でしたよ。 」
そう言うのは、長年、大阪タクシー協会の職員を務めた吉井保氏(現、大阪タクシー協会参与)。協会の用事で、たびたび相互タクシーを訪れたことがある吉井氏は、当時の社内の雰囲気を、こう語る。
「多田さんが近くに居るだけで、社員がピリピリする感じが伝わってきて、多田さんが咳払いでもしようものなら、みんなビクッとなるような感じでした」。
それもそのはず。社内ばかりか、業界でも一目置かれる存在で、交通文化賞や藍授褒章、数々の紺授褒章も受賞した清は、社員にとっては絶対的な存在だった。
こんな逸話もある。
清が出張先の東京から帰阪する時は、幹部や社員数人が大阪駅でそろって出迎える。そればかりか、途中の停車駅である京都駅でも、京都の営業所の幹部、社員が整列して出迎えたというエピソードも。
|
「越前大仏」建立の現場を足しげく訪れる多田清 |
だが、それだけ偉大な企業家になっても、自分の足で歩き、物事を自分の目で確かめるスタイルを晩年まで変えなかった。清は、毎日、大阪市内の営業所を自分で歩いて回り、所有している山林も自分で歩いて見て回った。
また、多くの場面で壇上に立って挨拶するようになってからも、事前に挨拶原稿を黄色い便箋に自分で書きつけていた。原稿を書いてしまうと、本番では一切原稿を読まずにスラスラとテンポよく話す。
「どんなことに対しても、事前に十分に分析・整理してから、物事にとりかかる冷静沈着な人でした」とは、清を知る古参社員の一人、 北村健児(相互タクシー参与)の弁である。 |