“安全”を開発せよ! 〜世界初、夢のナット開発に賭ける〜
1.発明は、人を喜ばすこと
若林克彦は昭和8年、大阪市で生まれた。父親は、大手食料品会社に勤め、終戦後に独立。小さな食料品店を営む両親のもと、4人兄弟の長男として育てられた。小さい頃から図画工作や理科、算数などの科目が好き。中学時代には軟式野球にも打ち込んだが、家に帰ると、いつも模型やプラモデル作りに夢中になった。モノづくりが、少年時代の若林を何より楽しませた。
両親に教えられたわけではない。ましてや、兄弟で一緒に何かを作った記憶があるわけでもない。しかし、モノをつくることへの好奇心は、日々成長するに従って強くなるばかり。
そして、小学校4年の時には、早くも自分でモノを考案して、独力で一つの製品を作り上げてしまう。
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小学4年当時の若林(右から3番目) |
それは、太平洋戦争の真っ只中、父の郷里である長野県に疎開している時だった。モノが極端に不足している戦中の疎開生活は、当然ながら不自由なことが多く、子どもも大人と一緒になって生活の手伝いをしなければならない。
若林少年は、農作業を手伝いながら、あることを思いつく。いつも畑では、大豆の種を手でまいているが、この作業は手間がかかるうえ、まいた種の間隔は均等にならない。
「もっと、便利にできないだろうか」。
若林少年は真剣に考え始めると、板切れや車輪などのあり合わせのモノを使って、等間隔で大豆の種をまくことができる「種まき機」を考え出し、それを独力で作り上げてしまった。
その「種まき機」は、後に多くのアイデア商品を生み出すことになる若林の記念すべき開発・第一号となった。
小学校5年の時には、「送風機付きカマド」も考案、製作した。それまでは人が火吹き竹で加熱し、ご飯を炊いていたが、ブリキの送風機が装着されたことで、ご飯の炊き上がりは飛躍的に早くなった。
戦時中という暗い世相の中、モノが不足し、誰もが不便を感じている時に、ひとりの小学生が考え出した便利商品は、父親のみならず周囲の人達を大いに喜ばせた。
「自分が不便だと思っているモノは、みんなにとっても不便なもの。便利なモノを考えれば、こんなにみんなが喜んでくれるのか」。
少年の心に、モノを作ることは、喜びの感情とともに植えつけられた。
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