“安全”を開発せよ! 〜世界初、夢のナット開発に賭ける〜
2.30万円で売れたインク瓶
若林は、高校生になると、模型やプラモデルに加え、よりメカニックなバイクに興味を示すようになる。大学時代には、クルマに懲り、ルノーを愛車にしたが、学生の若林が乗るのは、いつも中古車。ギアやエンジン回りがたびたび故障したが、若林はそのたびに近所の原っぱにゴザをひき、車体をバラして独力で修理した。
「バラして修理したら、何千点とある部品をまた一から組み立てないといけない。最後に部品が余ることもしばしばだったが、当時のクルマは今のようにコンピュータがついてなかったから、仕組みを理解するのは比較的簡単だった」。
「ひとつ見てやろう、自分で直してやろう」という好奇心が、若林のモノづくりの原点となっていくのは、この頃からである。
また、この時期、若林は自分の進路を決める重要な出会いもしている。
それは、たまたま本屋で手に取った一冊の本だった。
『発明は誰でもできる』というタイトルがついたその本には、著者で後に発明学会会長となる豊沢豊雄氏が手がけた数々の発明事例や発明手順、特許の申請方法、さらには一つひとつの発明がどれだけの報酬になったかが克明に記されていた。若林は、興奮した。大きな刺激を受け、そのタイトルの文字通り、本当に誰でも発明家になれるような気がした。
「自分も、やってみたい」。そう考えるようになった若林は、大学に入学すると、発明同好会を立ち上げ、自ら様々なアイデア商品を作り出すようになる。
代表的なのは、万年筆のインクがいつも一定量になるように設計された「インク瓶」。これは、当時、市販されていたニワトリの水飲み容器の置物にヒントを得て、定量付着のインク瓶に応用したもの。製品ができると、早速、実用新案に出願し、まもなくして文具メーカーに見本と説明書を持参すると、 30 万円の高額で買ってくれた。若林は思わぬ大金を手にすると、半分を両親に、あとの半分を大学の授業料に当てた。
「ちょっと考えて発明すれば、本当にいくらでもお金になる」。
若林は、自信を深めた。そして、開発意欲旺盛な若林が次に考えたのは、簡単に明るさが調節できる電球である。ロータリースイッチひとつで、一つの電球が30W、60 W 、100Wの明るさに自由自在に変えられる電球は、豊かになり始めた人々がTPOに応じて部屋の明るさを調節できる出色の商品だった。
ところが、まだ若かった若林はこの電球の特許取得を、ちょっとした書類手続きの不備から失してしまう。そして、誰もが自由に使える「公知」の状態になってしまった電球は、半年後、ある電気メーカーの新商品として、百貨店で大々的に販売されてしまったのだ。驚いた若林は、思わず電気メーカーに問い合わせた。すると、担当者は「物凄く売れている」旨を伝え、今後の会社の柱にするつもりだ、と話した。若林は悔しさを噛み締めたが、時はすでに遅かった。
だが、そうした学生時代の旺盛な発明意欲と多くの経験は、後に「ハードロックナット」をはじめとする数々の新商品を考案・開発する、確かな土台となって蓄積されていくのである。 |