メガネはアイデア産業 〜小売りから仕掛けるメガネ革命〜
3. 販売先を求めて全国行脚
高校に入ると、吉田はバレーボール部に入部する。スポーツが得意だった吉田はクラブ活動に情熱を燃やしたが、勉強はあまり好きな方ではなかった。高校3年になると、周囲の友人の多くは大学へと進学するが、吉田は大学受験に失敗。そのまま父親の経営する清水眼鏡工業所(現、シミズメガネ)で働き始めることになる。
父のもとで働くことが決まっていた吉田が関西大学の2部(夜間)に入学したのは、中学時代の担任の先生と町中で偶然に出会ったのがきっかけだった。
「メガネ屋をやるのもいいが、大学は行っておいたらどうだ」。
そう言って、先生は大学進学を諦めていた吉田を諭した。この年、吉田は2年目の受験にも失敗。すでに、どの大学も募集を締め切っており、進学しようにも受験する大学がなかった。
数日後、先生から電話がかかってきた。
「関西大学の2部がまだ募集しているぞ」。
吉田は先生の親切に感激しながらも、内心、「昼間働いて、夜まで勉強するなんて堪忍してえな」と言いたい気持ちだった。
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海外視察時のフライトスケジュール |
しかし、先生が「関大の2部でも失敗するのとちがうか?」というので、「そんなとこ目をつぶっていても通るわ」と言い返すと、「そしたら目をつぶって受けてみい」と言われ、受験。その結果、見事に合格。関西大学の2部生となった。
「当時の先生は紙の色が変わったような古い教科書を持っていましてね。とても尊敬できるようなものではなかった。でも、困った時にどんな本を読んだらいいのか。そういうことを学んだだけでも自分にとってはプラスになり、進学を進めてくれた先生に本当に感謝した」。
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大学で学びながら父親のもとで働く吉田は工場の一従業員として働き始めたが、やがて製造したメガネをいかに売りさばくかという販促の仕事に腐心するようになる。滞留しがちな在庫を何としても売りさばかなければ、明日の生計を立てるのもままならなかったからだ。メガネの卸販売から欧米へのサングラスの輸出販売、さらにはサングラスをガソリンスタンドやスキー場に販売する小売業に転進。吉田は清水時代の20年間で、「メガネに関する仕事はこれ以上ない」というほど多くの経験をする。海外のメガネ業界の視察に出かけたかと思えば、雪国の駅のベンチで一夜を明かしたことも1度や2度ではない。
しかし、こうした清水時代の下積みが、後にビジョンメガネを創業する土台となっていくのである。 |