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起業家・吉田武彦・株式会社ビジョンメガネ前代表取締役

メガネはアイデア産業 〜小売りから仕掛けるメガネ革命〜

4. 「つくった物は誰かが売らなあかん」

 専務時代、吉田は父親に自分の給料を兄と同じにしてくれるよう申し出ている。当時、兄は父親の後を継いで社長になっていた。普通なら認められる要求ではなかったが、吉田は自らの販促業務にそれだけの自負を持っていた。

起業家・吉田武彦

 「いくらメガネを作っても肝心の売り先がなかったら、それはただの在庫。販売先を数多く探してきていることを考えれば、私は兄の10倍は仕事をしている。それなら、せめて給料は同じでないとおかしい」。
 それが吉田の言い分だった。父親は兄に配慮しながらも給料を上げたが、吉田は次第に窮屈さを感じるようになっていた。給料ばかりではない。清水時代に吉田が出張した先は日本国内にとどまらず、海外にも及んでいた。吉田はこの出張費や商品仕入れに自腹を切り、気がついた時には立替金が千数百万円もたまっていたのだ。長年、工場を経営してきた父親が貿易や小売りの仕事に理解がないのは仕方のないことだったが、考え方の違いはやがて無視できないまでに膨らむことになる。

 父親との考えの違いが決定的になったのは、吉田が将来を見越して関東地区の市場調査をしようとした時だった。「東京なんぞ出張しても役に立たない」という父と衝突したのだ。
 「大阪とはマーケットが違うとはいえ、東京をリサーチしておくことは今後の会社のプラスになる」。
 そう吉田は考えたが、思いは伝わらなかった。吉田はこの時から起業の道を模索し始めるようになる。

 独立の準備に入ると、当時、同居していた父親はほとんど口をきかなくなった。
 「お前、小売業なんぞやって、口先だけで商売をする気か。人さまが汗水流して作ったメガネの上前をハネる商売なんかやめておけ!」。
 たまに話をすれば、この一点張りである。
 「松下電器でも三洋電機でも、作ったもんは誰かが売らなあかんのに…」。
 吉田は父親の叱咤を受けながら、小売りへの情熱をたぎらせた。

 そうしながらも吉田は独立の準備を着々と進めた。そして、あとは銀行から借り入れするために父親から保証人のハンコをもらうだけというところで、また激しい反対にあった。今度は「自宅の謄本に傷がつく」と言って、父親は頑としてハンコを押してくれなかったのだ。父親の2時間にわたる長い説教が続いた。もう諦めかけていた時、部屋の奥から母親の声が飛んだ。
 「いいかげんにハンコ、押してあげたらどないやの」。

 結局、その一言が契機となって、ついに保証人の判をもらうことができた。
 「これで誰にも気がねなく、思う存分、自分の好きなようにできる」。
 吉田、39歳。企業家としては、それほど早いとは言えない満を持してのスタートであった。
 後年、ギリギリまで吉田の独立に反対した父親は、1984年に亡くなるまで保証人の判を押し続けた。
 「オヤジには、世話になった」。
 その後、ビジョンメガネを立派に育て上げた吉田はシミズメガネの保証人となる。
 「今度は自分が死ぬまで判を押すつもり」。
 意見がぶつかり合うことの多かった父親だが、それが吉田のせめてもの恩返しだった。

 
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