メガネはアイデア産業 〜小売りから仕掛けるメガネ革命〜
5. いきなり当たった第1号店
昭和51年10月、後に全国280店舗を超える大手小売業に成長するビジョンメガネが産声を上げた。事務所はシミズメガネ本社の3階を賃借した。創業当時の吉田は、午前中にシミズメガネの引継ぎ業務をこなし、午後からビジョンメガネの仕事をするという2足の草鞋を履いて奮闘する。
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企業家・吉田(左) |
ビジョンメガネ第1号は大阪市東淀川区の淡路に出店。毎日、早朝から現地に足を運んではビラ500枚を宅配して、積極的な宣伝活動を行った。意気揚揚とした船出であったが、実は吉田が小売り店を出店するのはこれが初めてではなかった。シミズ時代、小売り部門の責任者として家具屋の売り場を借りて出店したが、お客の入りが悪く、店じまいに追い込まれた苦い経験があったのだ。創業といっても吉田にとっては2度目の挑戦。胸の内は二度と失敗できない「背水の陣」の心境であった。
そんな中、淡路店は開業早々から関西大学の学生やマンモス団地のある千里方面から買い物に来た顧客を多く集客。開店1カ月で、売上げは吉田の予想をはるかに上回る数字をたたき出した。駅前の商店街から少し離れた淡路店が繁盛した背景には、当初、吉田が想像もしなかった効果もあった。すぐ目の前を走る阪急電車が駅に進入する際、信号待ちのため淡路店の目の前で頻繁に停車するのだ。宣伝・販促が命と言われる小売業にとって、それは願ってもない宣伝効果となって、淡路店はたちまち近隣の競合店の中でも目立つ存在となる。
吉田はわずか2カ月の営業で、現金100万円を手に年を越した。そして、新年を迎えると吉田はすぐに次の手を打つ。1月に1号店の3倍近い売り場面積をもつ茨木店をオープンし、その5カ月後には3号店の吹田店とたて続けに開店したのだ。
しかし、その順調な客足は4番目の高槻店でピタリと止まる。
「人通りの多い場所に出店したにもかかわらず、なぜ売れないのか」。吉田は新しい出店を抑え、高槻店のテコ入れを試みた。だが、結局、高槻店は立ち直ることなく、2年近く踏ん張った末に撤収を余儀なくされた。
高槻店が失敗した理由は、当時の吉田にはまったく見当がつかなかった。それが分かったのは、次に出店した十三店が万来の成功を収めた時だった。十三店は売り場面積が50坪もあり、それまでの店舗に比べ2〜3倍の大きさである。それが出店と同時にメガネが飛ぶように売れたのだ。かたや失敗した高槻店は売り場面積がたったの5坪しかなかった。
「メガネ屋の顧客は例外なくメガネか、メガネに関する用事でお店に入ってくる。だから、店員はつい過剰に対応してしまいがちだが、店舗が小さすぎると、お客さんの隠れ場所がなくなってしまう」。
吉田は失敗から貴重な教訓を得た。しかし、それでも海千山千の小売り業者に比べれば、吉田はまだまだヒヨッ子同然。学ぶべきことは山ほどあった。その後も出店の失敗は幾度も経験したが、そのたびに吉田は店長を替え、売れ行きを観察。立ち直らなければ店を閉めるという対処を行い、年間に3店舗というハイペースで出店していくようになる。
この頃、吉田は小売業の面白さを実感するようになっていた。
「毎日、いろいろなお客さんに応対しなければならない小売りの仕事は、製造業とは違った辛さがある。でも、1人のお客さんで失敗しても、次のお客さんで失敗するとは限らない。いくらでも修正がきく。こんな面白い商売はない」。
吉田は小売業にのめりこんでいった。 |