企業は永続と見つけたり 〜情報処理産業の水先案内人〜
4. 運命の出会い
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西川会長(左)と森社長(右) |
昭和43年、社内のネットワーク構築を行うプロジェクトのチーム長に任命されたこの年、森はある運命的な出会いをする。男には一生に3度のチャンスがあると言われるが、森にとってはこの出会いがチャンスの一つだったかもしれない。
当時、電子計算機部門では、コンピュータのはしりとなるパンチカードシステムを使用していたが、そこから発生するいらなくなった多くのカードや用紙は焼却処分にしていた。だが、これらは株券や表彰状などとともに良質の製紙原料になった。
「捨てるのはもったいないから、製紙原料として売ったらどうだ」。
そう言って取引のあった製紙メーカーの担当者から、ある製紙原料商を紹介されたのが、のちに北大阪計算センター設立のパートナーとなる西川万太郎氏であった。西川氏は製紙原料問屋として大手企業との取引を手広く行い、業界ではトップクラスの企業として知られていた。
森は当時の西川氏の印象についてこう語る。
「誠実で、とにかく熱心。でも、商売の駆け引きは抜群で、まさに海千山千の商売人という印象だった」。
森は毎週、カードを引き取りにくる西川氏と顔を合わせるようになり、「オッサン」と呼べるほどの間柄となる。
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創業時代のナビオコンピュータ |
だが、当時、西川氏は50歳。森とは18歳も年が離れているうえ、実社会の辛酸と苦労を知り尽くした立志伝中の人物。かたや、森は国立大卒で1部上場会社に勤める、いわゆるエリートである。一見すれば、合うはずのない2人だったが、ある日、森がパンチャーの女性を数名用意して旗揚げ寸前だった「パンチセンターの設立構想」を西川氏に語ったことによって、2人の距離は急速に縮まる。起業家精神が旺盛な西川氏は、製紙原料商以外にも何か起業できるものはないかと考えており、この話に即座に反応したのだ。
「自分もその事業に加わらせてくれないか」。
西川氏はそう言うと、この計画に興味を示した。
しかし、時を経ずして森は課長に昇進。「大手企業の課長職を経験しておくのも無駄ではない」と考えて会社に残ると、パンチセンターの構想を西川氏に託した。そして、自らは株主兼顧問という形で外部からの応援に徹した。
かくして西川商店内に、パンチャー7名を集めたパンチセンターが設立された。森と西川氏という2人の起業家精神が出会ってできた会社はその後、うまく軌道に乗り、1年後の昭和44年4月、ナビオコンピュータの前身となる北大阪計算センターが産声を上げた。
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