“おもてなし”が夢を生む 〜タクシー業に賭ける親子100年の挑戦〜
第一部 多田清(相互タクシー株式会社 創業者)
1. 貧しさを体験した少年時代
相互タクシーの生みの親である多田清は明治 38 年、福井県勝山市で4人兄弟の末っ子として生まれた。多田家は、この土地で代々続く庄屋。かつては苗字帯刀も許された羽振りの良い家柄で、父親の三右衛門は家業である造り酒屋を営んでいた。だが、父・三右衛門は家柄の良さからか、苦労知らずの面があり、人に頼まれると嫌とは言えない生来の好人物。知人に頼まれて借金の証文に判を捺したり、地元の政治に手を出したりする一方、家業の造酒も仕込みの悪さから失敗を重ね、清が3歳になる頃には代々受け継いだ豊富な山林や田畑をすべて散財し、逃げるようにして商都・大阪に移り住んだ。
大阪では明日の生活もままならないドン底暮らしだったが、当の清は体格もよく、気質もジメジメしたところのない天衣無縫の腕白小僧だった。学校の勉強こそ、クラスでは中位ほどだったが、貧しさの中でも、清はノビノビと育ったようだ。
そんな少年時代の人格形成において、特筆すべきは母親の存在である。気丈だった母親の琴路は、事あるごとに多田家や母の実家が並外れて良い家柄だったことを語って聞かせていた。清には、「お前は偉くなって、多田家を昔のように繁栄させるのだよ。そして、みんなで力を合わせて、銀行を創業した野村徳七さんのような立派な人物になるんだよ」と励ました。野村徳七とは、野村証券を創業した人物。同じ福井県出身であったことから、母・琴路の口からは、いつも彼の名前が飛び出した。
「机に向かって勉強するよりも、1日も早く働きに出て、両親を安心させたい」。清は少年時代から、「生活を安定することが先決」「早くラクな身分になりたい」との思いを強めていた。そのため、小学校を卒業すると、早くも丁稚奉公に出て、「少しでも身入りのいい職場を」と職を転々とした。また、少年ながら、労働条件を冷静に判断することも忘れなかった。ある雑穀問屋で、「丁稚入用」という貼紙を見つけた時は、こう考えた。
「店の店主はクリスチャン。それなら、毎週日曜日にミサについていけば、他の職場よりも多く休みがとれる。多く休みが取れれば、実家に帰って友達と会ったり、本屋に行って将来のために勉強したり、自分の時間を持つことができる」。
清は丁稚に出る際も、自分の将来を考えて奉公先を選んでいた。 |