“おもてなし”が夢を生む 〜タクシー業に賭ける親子100年の挑戦〜
第一部 多田清(相互タクシー株式会社 創業者)
3. 一運転手から経営者へ
菓子屋の店主を辞めると、清は途端に失業者になりさがった。だが、同時に自らの手で事業を興す情熱は、以前にも増して強まっていた。
「事業を興すには、まず資金を貯めなければいけない」。
そう考えた清は、職種を選ばす、自分の体を酷使して働き始めるようになる。タバコの
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会社設立当時の多田清 |
原料工場での荷物運搬、運送会社での日雇い労働…。さらには、 20 歳で広島の電信隊に徴兵されてからも、2年間の軍隊生活を少しでも有益なものにしようと、厳しい軍隊訓練のかたわら休日を利用して働いた。しかも、働きに出た先は、大阪港の港湾労働。彼は毎週土曜日に、訓練で疲れた体に鞭打って夜汽車に乗り、広島から神戸まで出ると、またそこから大阪港に来て、沖仲仕の荷役労働を丸1日こなした。沖仲士と言えば、肉体労働の中でも最重労働である。鉄屑や石炭、米などの重い荷物を担ぐと、両肩の皮膚はすりむけ、紫色になって腫れ上がった。普通なら、何日かすると体も慣れてくるものだが、清の場合は週に一度の労働だけに、毎回、初めての時のような辛さがある。それでも弱音を吐かず、毎週日曜日になると、清は港に姿を現したのだった。
やがて、常人では成し得ないその逞しさは、巷の噂になった。「働き者の兵隊さん」「親孝行の兵隊さん」と噂が噂を呼び、ついには地元の中国新聞が清を写真入りで報道した。この美談に、普通なら軍規にふれるであろうアルバイトも黙認され、さらには隊長から「多田、貴様は軍の誇りだ」と表彰状さえ送られるに至った。
しかし、清は肉体を酷使する働き者だけではなかった。軍務のかたわら、勉学に励み、自動車修理の免状と運転免許まで取得したいたのだ。清は除隊すると、早速、地元の大阪・市岡にある相互自動車(現、相互タクシー)という小さなタクシー会社の一運転手となる。
タクシー運転手になると、清は少年時代からの親分気質を見込まれ、社内に自分たちの労働組合を組織する。さらに、それだけでは満足せず、関西方面の中央組織である大阪交通労働組合にまで出かけ、ストライキの指導までした。
そして、入社して3年ほどが経った頃、彼に大きな転機が訪れる。
当時、労働組合は大阪交通労働組合のストライキに参加。そこで、清たちは社長を前に、当時、多くのタクシー会社が実施していた名義貸制度(会社が名義を貸す代わりに、運転手から車庫賃を徴収するシステム)の不当性を訴えたのだ。
席上、社長はこう答えた。
「車庫賃は切り下げてもいい。だが、今、わが社の車庫は半分がカラなので、少しでも車庫賃を下げると、会社が成り立たなくなる。君たちが運転手仲間を連れてきて、車庫を車両でいっぱいにしてくれれば、要求に応じることはできる」。
「よく分かった。それなら、われわれの力で車庫をいっぱいにしよう」。
清は真摯な態度で、交渉を一決した。清の交渉態度に信頼を深めた社長は、さらに会社の経営を組合でやってくれないか、と申し出た。
一タクシー運転手に過ぎなかった清は思わぬ形で、タクシー経営に乗り出すことになった。
清、 26 歳。「多田家を復興する」と誓った少年時代から、さまざまな紆余曲折はあったが、今、彼の眼前には自分の才能を駆使して挑戦するに価する、果てしなく広大な海が広がっていた。 |