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企業家・多田精一・相互タクシー株式会社会長

“おもてなし”が夢を生む 〜タクシー業に賭ける親子100年の挑戦〜

第一部 多田清(相互タクシー株式会社 創業者)

5. 経営の神様も驚嘆した“先見の明”

 相互タクシーの一大タクシー村が、そのスケールの大きさから「東洋一の大ガレージ」と世間を賑わしていた頃、日本は太平洋戦争の泥沼に足を踏み入れつつあった。昭和 12 年には日中戦争が勃発。翌年には国家総動員法が公布された。その戦時体制化にあって、中小のタクシー業者は経営に行き詰まり、次々に大手企業に身売りするようになる。

整然と並ぶフォード製の多田式木炭自動車

 だが、企業家・多田清を知る上で、困難な時代こそ、先を明確に見通す「先見の明」が大いに参考になる。例えば、日中戦争で世間が日本の将来を案じている時、清は部下に迷わず「タイヤをぎょうさん買っておけ」と命じている。そして、清はオイル不足を見越して、いちはやく「木炭自動車」の研究に取り組み始めた。イギリスの文献を手がかりにガス発生炉の試作を行い、幾度となく行き詰まったが、そのたびに欠陥の原因を粘り強く探って、新しい考えが浮かぶと、また試作・実験を繰り返した。そのうち彼にも召集令状が届き、軍隊に入隊するが、それでも研究を諦めなかった。

 清は厳しい軍隊生活の中で、朝5時に起きると、木炭自動車の設計を行い、それを大阪に送って試作させ、また東京へ持って来させるということを、実に 70 回も繰り返した。そして、ついに清は、多田式木炭車を完成させてしまった。その発明特許は16にも上った、という。

 時を経ずして、太平洋戦争に突入すると、清の予見通り、ガソリンは急激に不足し、ついにはガソリンの配給が完全にストップ。そして、ガソリン車休車命令が発令されることになるが、この時にはすでに相互タクシーは600台の木炭車が稼動できる体制を整えていた。また、部下に大量購入を命じたタイヤも急速に不足したが、清は倉庫一杯にあふれるストックを抱えて、同業他社との経営体力に大きな差をつけた。

また、一億総決起で戦意が最高の高まりを見せていた頃、清は会議で開口一番、「今日から経理、営業部長らは中之島の図書館に通って勉強をしてもらいたい。ドイツが第一次世界大戦に負けた直後の経済状況を調べて、1週間後に報告書を出して欲しい」と言った。

 「なぜ」といぶかる重役、幹部をよそに、「敗戦に備えて、インフレ経済を研究して来いと言ってねんや」と続ける。

 「敗戦ですって」。ようやく口を開いた重役、幹部らが「それじゃあ、非国民じゃないですか。憲兵に聞こえたら、ただでは済まないですよ」と議論になったが、清の意志は変わらなかった。変わるどころか、「あわせて金、銀、の価値がどう変わるかも調べてくるんだ」と付け足した。

 資料を検討した結果は、「戦後のインフレ対策は、山林を買う、土地を買う、平和産業の株を買う」というものだった。清は、これらのインフレ対策をすぐに実行に移した。そして、山林は昭和 38 年頃までに京都府で 58 山、大阪府で 65 山を買占め、平和関連産業の株購入に至っては昭和 39 年頃までに約6000株、 93 銘柄に及び、当時の時価総額で約 65 億円にも達した。

 後に、木炭車の燃料確保に端を発した山林の買占めは、植林事業として受け継がれ、戦後の地価高騰時代には計算のしようもないほど莫大な資産となる。さらに、一流上場企業の株主となったことで、その受取配当金は半期で5億円にも上る多大な収入源となり、相互タクシーは戦後の混乱の中で、名実ともに大阪のタクシー業界の中でも群を抜くトップ企業に成長するのである。

 こうした多田式経営は、ほどなくして経済界にも響き渡り、当時、経営の神様と言われた阪急の総帥・小林一三が、阪急バスの経営を頼み込んだという逸話も残っている。
 
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