“おもてなし”が夢を生む 〜タクシー業に賭ける親子100年の挑戦〜
第一部 多田清(相互タクシー株式会社 創業者)
7. 「多田天皇」の誕生
昭和 40 年代に入ると、相互タクシーは車両保有台数1000車を越える、 大阪随一のタクシー会社に成長する。そして、卓越した先見性とその実行力でまい進してきた清のリーダーシップは相互タクシーグループのみならず、タクシー会社がひしめく業界内にも多大な 影響力を持つようになっていた。乗車料金の値上げ問題や増車問題、さらにはガソリンなどの燃料問題に至るまで、清の業界での活躍は多岐にわたり、昭和 35 年には社団法人大阪旅客自動車組合の理事長に就任する。
そして、大阪タクシー協会の理事を務めていた昭和42年には、乗客へのサービス向上と乗務員の労働環境改善を目的に、近畿で先陣を切って冷房化に取り組んだ。この時、「お客様のために、業界のために」という清の功績が認められ、業界から清の胸像を贈られる栄誉も受けた。日ごろは厳格な清も、この時ばかりは満面の笑みを浮かべて喜んだ。
協会のスタッフとして長年の間、リーダー・多田清を見てきた吉井保氏(現、大阪タクシー協会参与)は、胸像を贈られた時の清の嬉しそうな顔を、今もよく覚えている。
「多田さんは、普段は厳しい方でしたが、人から心のこもった贈り物をされた時には相好を崩して喜ぶ方でした。当時も、『私が今日あるのは、業界のみなさんのおかげ』と言って挨拶し、翌年には兵庫自動車会館の建設費を自ら出資されました」。
さらに、清は昭和 45 年に、2億4000万円を投じて大阪上本町に大阪タクシー会館を建設し、業界への提供を申し出る。そして、この会館の寄贈が、長らく分裂していた大阪タクシー協会と大阪自動車協会(前・大阪旅客自動車組合)の橋渡しとなって、両協会の大同団結が実現するのである。
清の橋渡しで合併した両協会には、実は 10 年近くに及ぶ深い因縁があった。
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大阪タクシー会館落成披露式での多田清(左から2番目) |
事の発端は、当時の運輸省が昭和 33 年から 36 年にかけて乱発したタクシーの新規免許である。新規免許は、通常、車両台数 30 台以上での認可が目安だが、当時は 10 台前後で容易に認可が下りてしまった。しかも、昭和 33 年、 35 年、 36 年の3年間で、たて続けに計100社以上の新免許が認可され、この新免許組がこぞって増車運動を展開したのだ。このため、相互タクシーをはじめとする既存業者は「ただでさえ供給過剰の大阪市場に、これ以上の増車を行うと、市場は完全な飽和状態になる」として反発。この問題は、いわゆる「 33 、 35 、 36 」問題として、業界を二分する論争へと発展した。
当時の大阪旅客自動車組合では、この問題で理事会が常に紛糾を繰り返し、組合会長を務めていた清もついには辞意を決意。多田清という最大の求心力を失った業界は問題解決に至らないまま、既存の大手業者と中堅業者が相次いで脱会。新たに大阪タクシー協会を設立するという事態になった。新旧両協会の分裂要因は、「 33 、 35 、 36 」問題に端を発した増車問題に加え、議決権の問題、さらには「業界出身会長」を推す大手業者と、「業界とは利害関係を持たない第三者の会長」を推す新免許組の対立といったいくつもの対立要因が絡み合っていたのだった。
分裂から7年の時を経て、そんな両協会の大きな溝を埋めたのが、清のリーダーシップだった。清は新協会の代表者として協会統一に尽力し、果たして両協会は昭和 45 年7月 15 日付で同時解散し、新たに大阪タクシー協会としてスタートした。 その後、清は新協会の初代会長に選ばれ、6期 12 年もの長い間、業界活動に尽力。業界からは、戦前・戦中・戦後のタクシー業界を知る最後の重鎮として厚い信頼を受け、いつしか清は“多田天皇”と尊称されるようになっていた。 |