“おもてなし”が夢を生む 〜タクシー業に賭ける親子100年の挑戦〜
第一部 多田清(相互タクシー株式会社 創業者)
8. オイルショックを切り抜けろ!
業界活動に 力を注ぐ一方、清は常に時代の先を読んだ会社経営を行う。昭和 40 年代後半になると、清の腹の中には、ある一つの読みがあった。
昭和 47 年、相互タクシーは400台以上の 大型ハイヤーを、次々に中型タクシーや大型タクシーに切り替え始めた。
この時のことを、当時、新入社員だった北村健児氏(現・相互タクシー参与)は、こう振り返る。
「突然、大型ハイヤーが中型タクシーに切り替っていくのを不思議に思っていると、翌年に第一次オイルショックが起こりました。石油価格は暴騰し、多くの人が トイレットペーパーの買いだめに走るのを見てはじめて、大型車から中型車に切り替えたのは、この騒動を予期してのことだったんだと驚きました」。
オイルショックは タクシー業界にも大打撃を与えたのである。ガソリン・ LP ガスは値上がりし、ガソリンスタンドは日曜・祝日は閉鎖。平日も午前8時から午後6時までに営業時間を短縮され、ついには LP ガス業者へも日曜全面ストップが通告された。さらに、運輸省も燃料事情の見通しが立たず、 49 年には東京、大阪など6大都市でタクシー運賃の 29 %暫定値上げが認められたのである。
そして、昭和 54 年の第2次オイルショックでは、政府上げての省エネ対策で、タクシー業界も小型車の導入を指導されることになる。当時、大阪タクシー協会の会長でもあった清は、「利用者が1人でも乗る場合は、小型でいい場合がある。だから、小型車導入は一定車両数を導入するべきだ」との立場で、協会を挙げて小型車に取り組むことを提案した。
ところが、小型車の導入は乗車料金の値下げになるとして、すべての事業者が反対の立場に回ったのだ。
だが、多くの同業者の反対にあいながらも、清には確信があった。
「将来は、必ず大型車と中型車だけでは通用しない時代がくる」。
清は、ついに相互タクシー単独で、小型車導入に踏み切る。
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黄色の車体がトレードマークの小型タクシー |
生来、細部にこだわる性質で、一方で大胆な発想を思いつく清は、小型車導入に際しても車体の色にこだわった。当時のタクシーはほとんどが黒の車体だったが、清はニューヨークを走る「イエローキャブ」に着想を得て、鮮やかな黄色の車体を採用。また、小型車の導入による運転手の水揚げ低下を防ぐために、1人1車の自主管理も徹底させた。相互タクシーの小型車は、たちまち748台にまで増えて、お客の支持を勝ち取った。 こうして石油ショックによる燃料不足と燃料費高騰という難題を、清は小型車の導入によって切り抜けたのだった。 |